2022年に没後50年を迎えた鏑木清方。
東京国立近代美術館では大規模な展覧会も開かれ、注目が集まっている画家です。
東京国立近代美術館は、こちらの記事でもご紹介しています。
では鏑木清方はどのような人物だったのでしょうか。
清方の残した作品と共にご紹介します。
1. 鏑木清方はどんな人?
鏑木清方は明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。文化勲章も受賞しています。
「東の鏑木清方、西の上村松園」と同時期に生きた上村松園と共に、美人画の巨匠とされています。
東京の下町で生まれ育った清方は、13歳で水野年方に弟子入り。
17歳では新聞の挿絵画家として出発しました。
20代に入った清方は小説家の泉鏡花と出会い、小説「三枚続」の挿絵を担当。
これにより清方は、その名を世に知らしめるようになります。
そして同時期に、若手の日本画家と共に「烏合会」を結成し、日本画の制作にも取り組み始めました。
『一葉女史の墓』『築地明石町』『朝涼』など、女性を主役とした作品を数多く残しています。
また大正7~14年にかけて、清方は「制作控帳」と称した自分の作品500点ほどのリストを作ります。
そこには作品の自己採点が載せられ、星3点満点で採点してあります。
その後も制作活動を続けつつ、晩年の約20年は神奈川県鎌倉市に自宅を構えて過ごしました。
この跡地には現在、鎌倉市鏑木清方記念美術館が建設されています。
2. 女性と懐かしき風俗を描く画題
次に鏑木清方の画題に注目していきます。
清方の作品の特徴として、「明治の女性と風俗」を描いたことが挙げられます。
清方の描く女性
まず清方は数多くの女性を、作品の中に描いています。
その女性たちの髪型や着物は、明治時代の流行や風俗取り入れて描かれました。
特に着物には、細かな部分まで丁寧な描き込みが施されてることも注目ポイントです。
例えば『新富町』の女性の羽織は、一見すると緑一色ですが、目を凝らすと細かな点が打ってあり、模様を形成しています。
また『築地明石町』の着物の青色の部分にも、細かな模様が入っています。
どちらも実物を見るとその芸の細かさに驚嘆する作品です。
また女性たちの心情表現の描き方も非常に繊細であるのが、清方の作品の特徴になります。
切なさ、憂い、楽しさなど…女性の内面まで感じ取れるような表情、仕草も見どころです。
清方の描く風景・風俗
清方は風景や風俗にも、明治時代の面影を描いています。
先ほどの『新富町』では女性の後ろに、うっすらと船の姿が見えます。
こちらは明治時代の帆前船。従来の和船と西洋型の船の和洋折衷になります。
このように時代の転換期で、まだ江戸と明治が混じりあった風俗を作品の中に登場させることも、清方の特徴です。
清方は、自分が生まれ育った明治時代の東京の景色を、絵の中に描き続けました。
それは時代の流れや関東大震災で、失われていった景色でもあります。
清方の作品は、当時の世間にとって、ノスタルジーが感じられる作品だったのかもしれません。
このような画題は晩年まで続き、清方の一貫性を感じ取ることも出来ます。
3. 『築地明石町』『新富町』『浜町河岸』について
続いてご紹介するのは『築地明石町』『新富町』『浜町河岸』(昭和5年)の3部作についてです。
2019年に5億円以上の額で購入され、東京国立近代美術館に収蔵された作品です。
中でも『築地明石町』は長年行方不明だった作品で、同年の公開時には大きな話題となりました。
『築地明石町』
『築地明石町』は東京都中央区明石町の辺りを描いた1枚です。
第8回帝展(1927年)に出品され、1971年には切手のデザインにもなりました。
モデルは江木ませ子。泉鏡花の愛読者だった人物です。
泉鏡花の紹介で、清方に弟子入りしていたこともありました。
明石町は、明治2年より外国人居留地が設けられた土地であり、作品の中では異国の情緒も伺えます。
例えば女性の髪型は夜会巻で、鹿鳴館時代に流行したヘアースタイルです。
また前述のとおり、後ろには帆前船も描かれています。
清方は実際に明石町に出入りし、外国人居留地ならではの雰囲気を楽しんでいたようです。
しかしこの外国人居留地も治外法権の撤廃や、関東大震災により失われていきました。
つまり『築地明石町』は、清方の思い出の中の情景が反映された1枚ではないでしょうか。
女性の服装はシックな黒と青。そこに赤い紅の色が映えています。
目線は遠くを見ていますが、憂いと力強さを併せ持ったような雰囲気です。
また耳たぶや足の指先には薄らとした赤色が差してあり、女性らしい血色感を感じられます。
『新富町』
『新富町』は1930年に制作された作品です。東京都中央区新富の辺りになります。
この辺りは、清方の小学校時代にの通学路として通った場所でした。
背景に描かれているのは新富座(旧守田座)で、絵看板も描かれています。
女性は新富芸者。新富座の開業により、新富町は花街として繁盛していたそうです。
しかし新富座も関東大震災により消失されてしまいました。
この作品も在りし日の『新富町』の風景なのです。
『浜町河岸』
『浜町河岸』も1930年に制作されました。中央区日本橋付近が描かれています。
当時は歌舞伎踊りの師匠がいた場所で、踊りのお稽古の帰りの女性が描かれています。
『築地明石町』『新富町』と比べると、若々しい女性です。
何か考え事をしているような仕草です。踊りのお稽古のことでしょうか。
服装も前2枚に比べ、華やかな色合いです。可愛らしいバラのかんざしも洒落ています。
背景には新大橋と安宅町の火の見櫓が描かれています。
それぞれ木製のものが描かれていますが、時代の流れと共に、どちらも木製から鉄製に替えられたものです。
また安宅町の火の見櫓は、関東大震災で姿を消したとも言われています。
清方は『新大橋之景』でも、新大橋と火の見櫓を描いていることから、心の中に色濃く残っていた情景だったのかもしれません。
4. 『一葉女史の墓』もオススメ
もう1点ご紹介したいのが、『一葉女史の墓』(明治35年)です。
神奈川県鎌倉市の鏑木清方記念美術館の所蔵作品になります。
清方自身が「生涯の作品制作の源となった」と語るほど、重要な作品でした。
題名にある『一葉』とは小説家の樋口一葉のこと。
一葉の代表作である「たけくらべ」を読み、感銘を受けた清方は、樋口一葉の墓に墓参りに訪れました。
その際に「たけくらべ」の主人公・美登利の姿が浮かんだのだそうです。
これが作品の基となり、『一葉女史の墓』では、美登利が一葉の墓に体を寄せている様子が描かれています。
美登利の表情は、儚げでありながら気が強そうです。
美登利が手にしているのは水仙。
これは「たけくらべ」のラストシーンで思いを寄せていた相手から、水仙の造花を送られることに着想を得ているようです。
美登利の美しさもさることながら、注目したいのは煙の表現。
細い線香の煙は、ゆらりとした動きを感じられ、風が吹けば消えてしまいそうです。
「ぶらぶら美術・博物館」で紹介されたことにより、一躍有名になった1枚。
鏑木清方記念美術館に見に行った際に、話しかけてきた地元のおじいちゃんも「これ今すごい人気なんだって~?良い作品だよねぇ…」と仰っていました。
まとめ:鏑木清方の作品で、女性の内面と明治の風俗を味わって!
鏑木清方と、その作品をご紹介しました。
現在、東京国立近代美術館では「没後五〇年 鏑木清方展」が開催されており、数多くの作品が展示されています。
『築地明石町』を含む3部作も展示中ですので、ぜひ足を運んでみてください。
東京国立近代美術館は、こちらの記事でもご紹介しています。
また鏑木清方記念美術館でも、清方の作品を展示しています。
鎌倉の小町通りから横道に入った場所にありますので、鎌倉観光の際に立ち寄るのもオススメです!
上村敏彦. 東京花街・粋な街. 街と暮らし社, 2008.
鏑木清方: 市井に生きたまなざし. 平凡社, 2022.
江戸東京デジタルミュージアム. "築地に出来た「外国人居留地」". 東京都立図書館.
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/bunmeikaika/page1-1.html
鎌倉市鏑木清方美術館. "新大橋之景". 鎌倉市鏑木清方美術館.
http://www.kamakura-arts.or.jp/kaburaki/collection/shinohashinokei.html
鎌倉市鏑木清方美術館. "一葉女史の墓". 鎌倉市鏑木清方美術館.
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