ジョジョの奇妙な冒険のラスボスたちは盛大な断末魔をあげて死亡しています。
今回はそのラスボスたちの断末魔がなぜカッコわるいのか、考察してみました。
1. 歴代ジョジョのラスボスたちの断末魔
まずは歴代ラスボスの断末魔を振り返ってみます。どれを断末魔とするかは難しいところではありますが、大体こんな感じね。
カーズ「体内から空気を噴出して地球に戻ってやる!」→「軌道を変えられん!戻れん!」
DIO「バカな、このDIOがァァァ~~~~~!」
吉良吉影「私はどこへ連れていかれるんだ?」
ディアボロ「便器に吐き出されたタンカスどもがこの私に対して…」→「オレのそばに近寄るなーッ!」
プッチ「やめろ!知った風な口きいてんじゃないぞ、このちっぽけな小僧がァァァ!」
ヴァレンタイン大統領「この私にこんな事があああッ!」
ディエゴ「オレが世界の頂点なんだ!薄っぺらなたかが小娘のくせに!このオレによくもこんな事をしてくれたな!」
透龍「助けてくれ康穂ちゃん、子供の頃から仲良しだったじゃないか」→「康穂ッ!このクソ女をさっさと止めやがれ!」
ダサいねぇ(直球)
おせじにもかっこいいとは言えないですよね~…でも荒木先生は、意図的にこのような台詞にしているはず。ということで最後のお言葉がカッコ悪くなりがちな理由を考えてみます。

ジョジョのラスボスたちが断末魔で生にすがる皮肉
さて断末魔にはいくつかパターンがあるようで…そのひとつが死の回避(一覧の赤字のところね)で、「やめろ」「近寄るな」と相手を遠ざけようとしたりと、生存するためにあれこれ手を尽くしています。これがね~~~~~皮肉なんですよね~!
ジョジョのラスボスたちの多くは生に強く固執していました。石仮面をかぶって永遠の命を手に入れようとしたディオ、不死身と不老不死を目指したカーズ、「生きのびてみせる」と宣言した吉良とかね。彼らにとって死は恐怖するもの、遠ざけたいものだったはずなので、最後まで命乞いをする気持ちは理解できるところです。
でもね~そのために無関係な人を殺害してきたわけでしょ~~~?自分の欲望のために第三者を犠牲にしてきた者が、いざ自分が命を落とす時にはなりふり構わず生にすがるなんて…自業自得もいいところですが、そんなラスボスたちの身勝手さを強調するためにも、荒木先生はカッコ悪~~~い断末魔を演出していたのではないでしょうか。

断末魔で見下した相手に敗北するラスボスのカッコ悪さ
もうひとつのパターンが相手への見下し(青字の部分ね)です。「この私に」と自分を崇高な存在とみなしたり、「このちっぽけな小僧」など軽蔑したりと偉そうですね~!自分こそ正しい!と強く信じ、他人の手を借りず手段を選ばず理想の実現を目指したラスボスたちなので、その姿勢が貫かれてることはキャラクターとして魅力的ではあります。「許してくださいもうしません~~~!」とか言われてもねえ。鋼入りのダンか???
でもだからこそカッコ悪くもなってしまうわけで。なんせそんな偉そうな者たちが「ちっぽけな小僧」や「薄っぺらな小娘」を前に敗北するんだもんね~!そこに「オレのそばに近寄るな」だの「さっさと止めやがれ」だの生にすがる台詞が加われば、ダサさのハーモニーっつ~んですかあ~?状態。自称スペシャルな存在がそうではない人間に敗北するからこそ、断末魔がカッコ悪く聞こえるのではないでしょうか。

2. ラスボスの断末魔と主人公サイドの死の比較
次に主人公サイドの最期と比較してみます。生に固執して死を恐れたラスボスたちですが、主人公サイドのキャラクターは物理的な死よりも精神的な死を恐れる描写が多かったのではないでしょうか。例えばシーザーのラストシーンを見てみると…
し…………し……死ぬのは……こわくねえ……………ぜ だが…おれは誇り高きツェペリ家の男だ その血統を受け継いでいる 父さんは このおれを息子と知らなくても自分の命を犠牲にして救ってくれた…………………じいさんもJOJOの祖父ジョナサンのために波紋の力を与えて死んでいったというぜ…………………(中略)だからオレだってなんかしなくっちゃあな…カッコ悪くてあの世に行けねーぜ…………荒木飛呂彦(1989年)『ジョジョの奇妙な冒険』10巻 集英社(118-119頁)
怖くねえとはいうものの、やっぱり死は怖いはずだよね~…でもシーザーにとってそれより許せなかったのは、カッコ悪く死ぬこと。ツェペリ家の男らしさを見せずに終われない!と考え、死の運命を受け入れながら、自分の美学を貫いて最期を迎えていました。
ブチャラティもまた、昇天シーンでこんなことを話しています。
ジョルノ……オレは…生き返ったんだ 故郷… ネアポリスでおまえと出会った時…組織を裏切った時…にな…ゆっくりと死んでいくだけだった…オレの心は生き返ったんだ……おまえのおかげでな………幸福というのはこういうことだ…………これでいい 気にするな……………みんなによろしくと言っておいてくれ…
荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』63巻 集英社(42-43頁)
麻薬で家族を失ったにも関わらず組織に加担し続けるという生き方をやめて、精神的に生き返ったとのこと。本当の自分らしく生きられたことが大切で、幸福だったと宣言して天に昇っていきました。やっぱり主人公サイドは「精神的な死>>>生物学的な死」なんですよね~!
でもそう思えるのはきっと、自分の意志を引き継いでくれるであろう仲間がいるからこそ。DIO戦前に「今までの旅に、これから起こる事に後悔はない」と語った花京院が最期の瞬間まで仲間のことを考えたように、自分が死んでも仲間の心の中で生き続ける、仲間の役に立てる、と思えることが死への恐怖を吹き飛ばしてくれるのではないでしょうか。「死=終わり」ではないというイメージね。
逆に単独で行動するラスボスたちは、意志を引き継ぐ者がいないので「死=終わり」となってしまうんですよね~…自分が死んでも誰かが覚えていてくれるという安心感がないゆえに、ラスボスたちは生に執着し、カッコ悪い断末魔となってしまうのかもしれません。

まとめ:ジョジョのラスボスの断末魔がカッコ悪いのは生への執着と皮肉ゆえでは
ジョジョのラスボスの断末魔について考察してみました。
上から目線なキャラクターを貫き、生にすがるという皮肉な断末魔をあげて敗北したラスボスたち。決してカッコ良い最期ではありませんでしたが、孤高ゆえに生に固執してしまうのかもしれないよね。
一方で死の運命を受け入れ、仲間へ思いを託していく主人公サイドはやっぱりスーパーですよね~~~!死は本能的に恐怖のはずが、それを超えていく覚悟や絆が感じられますよね~…でも死に怯えるラスボスたちの方が、ある意味人間らしいよね。ラスボスに共感しちゃうのはこういうところなんだろうな~!
ジョジョのラスボスたちの話いろいろ



