ジョジョの奇妙な冒険8部ことジョジョリオンでは、石化病を巡る問題について家族内で意見がわかれていました。
今回は憲助と対立した花都と常敏は悪だったのか、考察してみました。
1. 東方花都と常敏は悪だったのか
最初に花都と常敏の考え方を見ていきます。花都で印象的だった行動といえば、常敏を石化病から救うためにボーイスカウトの少年を犠牲にしたことですよね~!これが原因で憲助とは離婚に至りますが、花都さん曰く「先祖の霊に誓って正しいことをした」そう。東方家にとって大切な家系の存続のため、そして何よりも愛する息子を守るための行動でした。
常敏は「勝った者が正しい」というのが基本スタンス。勝利者であることを重視しており、そのためにはやり方を選ばない節がある男です。フルーツパーラーの経営方針、石化病との対峙の仕方に始まり、クワガタ戦でも昆虫の命を犠牲にしてまで勝利をつかもうとしていました。
2人に共通するのは、目的のためなら方法は二の次という考え方です。ただジョジョの美学は「過程>結果」でね。ラスボスなど敵キャラは安心や安全を求めるあまり、過程や方法なぞどうでもよくなる「結果>過程」で、主人公たちに成敗されるというのがお決まりのパターンでした。この流れ、親の顔より見たわ。
花都と常敏も主人公に成敗はされなくとも、最後は死亡。超~~~~極悪キャラではないとしても、そんな結末を迎えたところはジョジョの世界で悪と判定されたゆえと言えるのかもしれません。

憲助との比較から見える親としての花都と常敏の悪
今度は2人が対立した憲助と比較してみます。注目したいのは終盤で、康穂のスマホをトイレに流すか迷うシーン。水に戻してくれと頼む常敏を前に、憲助はこう話していました。
わたしは考え方が古く新しい時代の価値や利益や技術を認めず間違っているのかもしれない でも「呪い」が解けるというのなら…お前が「正しい」のかもしれない それならわたしは長男であるおまえに従おう(中略)だが…但しだ……我々が「正しい道」を間違いなく歩いているならばだ
荒木飛呂彦(2020年)『ジョジョリオン』24巻 集英社
「呪い」を解くのは大事でも、そのために「正しい道」を歩くことは譲れないとのこと。いわゆる「過程>結果」の考え方で、常敏たちとは真逆ですが、ジョジョリオンでも憲助の考え方こそきっと正。なんせ「憲助」を襲名する前の彼の名前は「常助」と読みがジョジョになるもんね~!
ということはジョジョリオンの哲学に背いている点でも常敏と花都は、悪になるんですよね~…しかも家族内問題の解決のためにその家族を悲しませる結果を招いたのも皮肉なところ。常敏が憲助に手をかければ家族中が泣き叫び、花都は子供を愛していると語るも娘息子には距離を置かれてしまったり、となんだか切ないよね…
一方で「正しい道」を大事にする憲助パパなんてこれよ。
荒木飛呂彦(2019年)『ジョジョリオン』21巻 集英社(50頁)
娘との距離感すごい。
鳩ちゃんも花都について「他人様の子供を殺した」と話していたあたり、結果のために何をしていいわけではないよ~という憲助側の考え方の持ち主。「おはようパパ」とみんなに話しかけてもらったり、ハワイ旅行が計画されたりと親子関係が円満そうだった憲助さんですが、「正しい道」を歩いていると家族もハッピ~ということなのかもしれません。花都ではこうはならんよな…
未来ある子供を思う常敏や花都の気持ちには、同情できるものがあります。ただやっぱり親として「正しい道」を歩くことも、ジョジョリオンでは大事なのではないでしょうか。とはいえシチューを持ってきた花都や憲助を攻撃した常敏の涙を見ると、2人を責めきれない気持ちにもなるんだよな~~~…人間だもの。だものォォーッ!

2. ジョニィは悪なのか?ジョジョリオンとSBRの美学の違いとは
でもさでもさ、花都と常敏の考え方って「漆黒の意思」じゃないの?ジョニィは主人公なのに悪だったってこと?というのも気になるところ。ということでジョニィと比較しながら、8部の美学を考えてみます。
7部は「漆黒の意思」を持つジョニィと、「黄金の精神」を持つジャイロがタッグを組み、レースを駆け抜ける話でした。作中では「漆黒の意思」を発揮しまくるジョニィをジャイロが止めたり、ジャイロは「ジョニィは良いがお前は考え方が甘い」とリンゴォに諭されたりと、「漆黒の意思」「黄金の精神」どちらも大事だよ~と描写されていたのが印象的です。
ところが8部では「漆黒の意思」を持つ者がことごとく死亡します。花都と常敏はもちろん、あのジョニィまで…!ということは7部では「漆黒の意思=黄金の精神」と提示されたものの、8部では「黄金の精神(結果重視)>漆黒の意思(過程重視)」といつものジョジョ哲学が強調されていたと考えられるのではないでしょうか。
じゃあジョニィは悪では?と言いたくなりますが、物語冒頭で「ぼくが歩きだす物語」とあるように、7部はジョニィの成長物語。「漆黒の意思」だけのままでは悪の道を歩むであろうジョニィが、ジャイロらから「黄金の精神」を学び、「マイナスをゼロに戻したい」を達成しようとする話です。つまり7部のジョニィはこのままでは悪の道にズブズブであろう人生から、善の道のスタートラインに立とうとしていたので、完全なる悪とは違う気がするよね。悪から善に変わろうとするイメージかな~…

3. 花都と常敏の「毎日が夏休み」の意味
最後に「毎日が夏休み」の意味を考えてみます。常敏のモットーであり、花都もウジウジする常敏を前に「それで夏休みが楽しく過ごせるのか?」と気合いのビンタを食らわせていましたよね~!でもこの「毎日が夏休み」って何?
さて夏休みといえば「サマーシーズン到来!」だの「お楽しみがたくさん!」だのウキウキの日々が続くイメージです。常敏も「全ては夏休みのように幸福で輝いている」と語っていたように、ポジティブな言葉に聞こえます。でも常敏の夏休みはいつも楽しかったわけではないはずで。毎年夏休みがやってくる=魔の10歳が近づいてくることなので、恐怖心もあったよね…
さらに夏休みにはきっと、あのいじめっ子がいたボーイスカウト活動だってありますよね~!ボーイスカウトやサマーキャンプなど、子供中心の活動はジョジョでは嫌な記憶として描かれがち。つるぎや康穂、4部吉良などろくな思い出がありませんでしたが、その点でも幼少期の常敏の夏休みはウキウキで過ごせなかったのではないでしょうか。
とすれば常敏の夏休みが楽しくなったのは、10歳を過ぎても石化病が発病しなかった時からになります。死ぬ運命から解放され、いじめっ子も消えたのだからそりゃ~~~気が楽だしハッピーにもなるよね~!つまり「毎日が夏休み」とは「安心して生を謳歌できる日々」のこと。そして死に対峙した人間だからこその「人生いつ死ぬかわからないのだから毎日楽しくやるべき」という悟りの境地のような気持ちも想像できそうです。
ただあの少年を犠牲にした上で「毎日が夏休み!」なんて話している姿は、それはそれで狂気を感じるところ。知り合いは死んだけれど自分は死なないからウキウキ!とも見えるというか…一見明るくピュアに見える「毎日が夏休み」ですが、殺人を経た上での発言という点では常敏側の人間のヒールらしさが表現された台詞だったのかもしれません。

まとめ:ジョジョリオンの東方花都と常敏は、憲助やジョジョの哲学に反した点では悪
花都と常敏は悪だったのか考察してみました。ジョジョの名を持つ憲助らとの考え方とは真逆で、ジョジョの美学に反しているという点では悪ではあると思います。ただ2人とも未来ある子供のためという気持ちが根底にあるのがね~…特に透龍と戦って呪いを解いた花都さんの姿を見ると、この人は悪だ!なんて言い切れないところがありますよね…
それでも親として正しい道を歩くべきと提示されているのも、家族の物語であるジョジョリオンらしさを感じるところ。愛しているという気持ちだけではダメなんだろうな~…親の道は厳しい…!
無敵の(?)承太郎ですら苦労するジョジョの親子話いろいろ


