【ジョジョ5部】「今にも落ちてきそうな空の下で」の意味を考察してみた

ジョジョコラム

ジョジョの奇妙な冒険5部の「今にも落ちてきそうな空の下で」。アバッキオの最後の登場となるエピソードでした。

アバッキオの死だけではなく、同僚の登場など様々な要素が描かれていますが、どんな意味やテーマを持つエピソードなのでしょうか。考察してみました。


1. アバッキオの人生と5部のテーマを振り返る

まずはアバッキオの人生と5部のテーマについて考えてみます。5部は「過程と結果」がひとつのテーマであり、過程重視のジョルノたちと、結果重視のディアボロの対比が随所に見られました。ディアボロの過程を吹っ飛ばして結果だけを求める能力や、「眠れる奴隷」のエピソードとかね…

眠れる奴隷についてはこちら。

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そしてアバッキオの人生も、結果と過程が重要なテーマとして展開されました。警官になりたての頃は、強い正義感を持っていたアバッキオですが、世間の理不尽さに触れるにつれ、自分を正当化するように…

荒木飛呂彦(1997年)『ジョジョの奇妙な冒険』52巻 集英社(49頁)

そしてついに犯罪者から賄賂を提案されると、自分が受理しようがしまいが「この男にとって金を払うこと」「自分が町を守ること」は変わらない、と受け取ってしまいます。これは、「結果」を重視したことによる行動です。一方ブチャラティチームでは、パッショーネに反旗を翻すことに。これはディアボロという強大な敵に立ち向かえば死ぬかも…という「結果」ではなく、それでもブチャラティと共に正義の道を歩もうとする「過程」を重視した選択と言えます。

このようにアバッキオは結果重視、過程重視の両方を経験してきた人物として描かれており、「過程と結果」という5部のテーマを体現したキャラクターだったと言えるのではないでしょうか。

2.「今にも落ちてきそうな空の下で」の意味とテーマ

アバッキオの人生と5部のテーマの関係性が分かったところで、次に「今にも落ちてきそうな空の下で」はどのような意味を持つ物語なのか、考察してみます。

「今にも落ちてきそうな空の下で」はアバッキオの救済の物語

まず「今にも落ちてきそうな空の下で」は、アバッキオにとってどのような意味を持つエピソードだったのでしょうか。

話の中で、アバッキオは地道な証拠集めをする警官(元同僚)と会話をしていました。そこで警官の純粋な正義感と信念を羨望しつつ、自らを「途中で終わってしまう男」と卑下…。

荒木飛呂彦(2000年)『ジョジョの奇妙な冒険』59巻 集英社(115頁)

あのジョルノに厳しいことで有名なアバッキオ先輩が弱気だ…

アバッキオ先輩がジョルノに厳しい話についてはこちら。

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しかしそんなアバッキオに、警官は温かな言葉をかけます。

荒木飛呂彦(2000年)『ジョジョの奇妙な冒険』59巻 集英社(116頁)

アバッキオは正義感を持っていたあの頃には戻れないと思い込んでおり、ただただ人の命令を聞くことを心の拠り所にしてきました。自分の意志で行動したら、賄賂は受け取っちゃうわ、同僚は死ぬわ…だったんだもんね~そりゃ思考放棄もしたくなるわい…でも殺されるかも…という結果を恐れず、正義を貫くブチャラティたちと共にディアボロに立ち向かうことは、「真実に向かおうとする意志」そのもの。それに気づいていないアバッキオに教えてくれたのが、この同僚の言葉だったのです。

引け目を感じていたアバッキオが、死の間際に同僚の言葉で気づきを得て、安らかな顔で逝く。そんな風に考えると、「今にも落ちてきそうな空の下で」はアバッキオにとっては救済の物語なのかもしれません。

「今にも落ちてきそうな空の下で」とジョジョのテーマ「継承」

そしてジョジョのテーマと「今にも落ちてきそうな空の下で」の関係も考えてみます。ジョジョでは「継承」の物語が頻繁に登場しており、ジョースター家の血筋やシーザーの死、そして6部でも大きなテーマとなっていました。

そして「今にも落ちてきそうな空の下で」もこの継承の物語が描かれています。腹に致命傷を負っても、最後の力でディアボロを倒すヒントをジョルノたちに託したアバッキオ。そしてジョルノたちがそれを引き継ぐのは、まさに継承のテーマの体現

…なのですが…何だろうこの既視感…

………

あ、これ花京院だわ。

死の間際に仲間のために手がかりを残す、と言えば花京院。しかも腹パンまで同じとは…

それはともかく、アバッキオは仲間のために力を振り絞って力尽きるも、その意思はジョルノたちが引き継いで悲願を達成した…と考えると、「今にも落ちてきそうな空の下で」で迎える結末は、ジョジョの王道である「継承」がアバッキオを中心に表現された物語でもあったのではないでしょうか。

3. アバッキオがバスに乗ってきた意味

最後に「今にも落ちてきそうな空の下で」に登場したバスの意味について考えてみます。同僚と再会した地に、バスでやって来たらしいアバッキオ。

荒木飛呂彦(2000年)『ジョジョの奇妙な冒険』52巻 集英社(49頁)

なぜバス?とちょっと気になる描写ですが、これは「バスは自分の意志で乗り換えられるから」ではないかな~と思います。正義感を持って警官となった時のアバッキオは、正しい道を行くバスに乗ったはずです。しかし世間の不条理に触れるうちに、初心を忘れ、賄賂を受け取るまでに…これはいつの間にか、自分の仁義に反する道を行くバスに乗り換えてしまった、と言い換えることも出来ます。

しかしブチャラティチームに加入したことで、アバッキオはギャングにも関わらず、純粋な正義の心を持つ男の下につくことになりました。それは偶然にも、アバッキオが本来求めていた道に近づけるバスに乗れたということなのかもしれません。

そして転換点となったのが、ブチャラティとともにディアボロを裏切る場面です。

荒木飛呂彦(2000年)『ジョジョの奇妙な冒険』56巻 集英社(115-116頁)

アバッキオは安心感を求めて、ブチャラティについていくと発言しています。でも自殺行為に等しい裏切りに乗ったのは、ブチャラティの意見に賛同した部分も大きいはず。つまりアバッキオが自らの意思で、正しい道を行くバスに再び飛び乗ったのです。

だからこそ終点では同僚に「りっぱにやったのだよ」なんて言葉をかけてもらえた訳ですが、仮に間違った道を行くバスに乗ったままで同僚に会えたとしたら、こうはならなかったんだろうな…むしろ終点の場所が違って会えなかったかもしれん…

ところでこれ別に電車でもいいんじゃ…とツッコまれそうなところですが、でも電車じゃ同僚と再会するのが駅のホームになっちゃうもんな(メタ的な発想)。バスの方が絵的にいいんですよ…多分…

このように考えると、バスが使われたのは「自分の意志で乗り換えられる乗り物」だからなのかもしれません。アバッキオは何度も乗り換えながら、最後は正しいルートのバスに乗って終点にたどり着いたとすれば、バスは人生の選択の象徴と言えるのではないでしょうか。

まとめ:「今にも落ちてきそうな空の下で」はアバッキオが救済される、テーマ性の高い話

「今にも落ちてきそうな空の下で」について考察してみました。

ジョジョ屈指の名エピソードですが、そこには5部やジョジョのテーマなどが関係した、深~い物語であったことが分かります。

自分を卑下し続けながらも正義感を忘れなかったアバッキオ。そんな男が同僚の誇りとなり、仲間に惜しまれて旅立った…「今にも落ちてきそうな空の下で」は、そんな悲しみと魂の救済を描いたエピソードと言えるのかもしれません。ブラボー…おお…ブラボー…!!

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