ジョジョの奇妙な冒険5部では終盤でシルバー・チャリオッツ・レクイエムが登場しました。
今回はシルバー・チャリオッツ・レクイエム(以下「チャリオッツ・レクイエム」)の影や入れ替わりの能力の意味を考察してみました。
1. シルバー・チャリオッツ・レクイエムの影の能力の意味
まずは影についてです。影は常に自分の反対側に移動していく性質があり、作中ではディアボロがこのように考察していましたよね~!
「この影」はその人間個人個人が見る影なのだッ!レクイエムの謎はこれだ!ひとりひとりの「精神」を操れるのはこれが理由なのだッ!影があるのなら自分だけの「光」がどこかにあるはずだッ!こいつは人の心の影だ!!操られた心から照らし出された「影」だ!どこだ「光」は!?レクイエム自身がオレの「心の影」なのだ!だからこいつを攻撃することは自分を攻撃することになるッ!この影を取り除けば「矢」は手に入るはずだッ!
荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』62巻 集英社(224-225頁)
めちゃくちゃ独り言が饒舌。詳しい解説、ありがとうございます。
恐らく「影は個人の心の影」というのは「影は個人のコンプレックスや嫌な部分」の意味ですよね~…その嫌な部分を攻撃することは、自分を攻撃することになり、光を壊せば矢は手に入るとのこと。ところがびっくり!それに真っ先に気づいたディアボロ先生は矢を手に入れることができませんでした。なんで…?

シルバー・チャリオッツ・レクイエムの影の能力はポルナレフの願い!?
これね~チャリオッツ・レクイエムは、「お前に矢を手にする資格がある人間力があるか?」と試していたんじゃないかな~…人間は自分のコンプレックス(影)の部分は遠ざたり嫌ったりする一方、自分の正義感(光)は正しいと思い込んでしまうのはよくあること。だからこそ「本当に自分は正しいのか?」と傲慢さを捨てて疑い、嫌な部分も直視して、影と光に分けることなくどちらも自分として受け入れられる人間か?を問うていたのではないでしょうか。
というのは、ポルナレフがこのプロセスを歩んできたんですよね~!こちらで詳しく解説しましたが、ポルナレフは3部ではおしゃべりな直情型で後先を考えられなかったタイプ。でも5部では機動力も仲間も失った隠遁生活の中で、ディアボロへの下調べが不十分だったことを猛省し、最も苦手だった独りで計画的な戦略を立てることに向き合った人物でした。
だからこそチャリオッツ・レクイエムも元本体だったポルナレフのように、コンプレックスから逃げず、受け入れながら大きく成長できた人間を探していたのではないでしょうか。それはポルナレフの「矢は中途半端な者には渡せない」という強い願いの反映だったのかもしれないよね。
ということでチャリオッツ・レクイエムは、矢の継承者として光と影も受け入れたポルナレフと同等、あるいはそれ以上の人間を探していたゆえのだったのではないでしょうか。そりゃ~~~自分のイヤな部分をドッピオに押しつけたディアボロは矢を取れないわけだよね~!しかもポルナレフの因縁の相手だもんな。ディアボロにだけは意地でも渡さない能力だったりして…!?

各々がシルバー・チャリオッツ・レクイエムの影を破壊する意味
もうひとつ面白いのが、チャリオッツ・レクイエムの影は個人個人が見る影であるということ。つまりジョルノの影はジョルノしか破壊できない、というように影は他人に頼らず個人で撃破するべきものでした。それは「誰かに頼っているうちは真の成長はできない」ということを意味していたのかもしれないよね。
人の成長は他人が行うものではなく、自分と向き合う中で完成させていくもの。だからこそあの影は各々が破壊する必要があるんじゃないかな~…自らの固定概念やコンプレックスと向き合い、影も光もなくなった新しい自分となることが求められる稀有なスタンドですが、それはポルナレフが独りで己と対峙し、あの成長を遂げたからこそのような能力だったのかもしれません。

2. シルバー・チャリオッツ・レクイエムの入れ替わりの能力の意味
次に入れ替わりの能力についてです。かなり過激な現象でしたよね~~~!あそこまでの能力なのは矢を守るという防衛本能というのはもちろん、「お前は姿かたちが変わってもお前でいられるのか?」という究極の問いなのかもしれないよね。
入れ替わりで指毛が生えただの、俺のが年上だのみんながパニックになる中で、ポルナレフは亀の姿でも淡々と矢の説明をしていました。それはどんな姿でも、目的を果たそうとする本体の強さがチャリオッツ・レクイエムにも表れていたのかもしれないよね。そして亀から出られなくなってもこれ。
荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』63巻 集英社(222頁)
落ち着いてますよね~!なお10年前にはベンキで大騒ぎしていた模様。亀、トイレないけど大丈夫?
「肉体は死んだが亀の中に居候させてもらう」と、魂の器の変化を受け入れ、順応していたポルナレフ。そんな人物が元本体だからこそチャリオッツ・レクイエムの入れ替わりは、姿かたちが変わっても強い意志と個を持ち続けられるのかを試していたのかもしれないよね。
またタイムリミットがあったのは、人生には終わりがあるという表現ではないでしょうか。自分が自分であるうちに成すべきことを成す覚悟のある者がいれば矢を渡す、誰もいなければゲームオーバーという仕組みなのかもしれません。それはいつ敵に見つかるかわからない状況でも、矢の継承者を探し続けたポルナレフの生き方とも重なるところでもあります。
影、入れ替え、タイムリミット…かなり過激派だったチャリオッツ・レクイエムですが、あの能力はポルナレフの願いが極端な形で表れていたのかもしれません。もはやチャリオッツ・エクストリームじゃんね。ジョジョ屈指の能力のエグさだよな~!

3. シルバー・チャリオッツ・レクイエムの能力とキリスト教との関係
最後に5部と関連の深いキリスト教との関係について少しだけ…まず入れ替え能力で思い出すのが、キリスト教の「肉体は朽ちても魂は不滅」という考え方。姿かたちが変わっても、人格は残り続けた入れ替えは、キリスト教の教義の表現だったのではないでしょうか。
また入れ替え能力の際には全員が眠りについていましたが、キリスト教ではアダムを深い眠りに落とし、その間にわき腹からエバを創り出すなど、眠りと誕生や変化に関するエピソードがチラホラ…特に注目したいのは、弟子のペトロらが強い眠気をこらえていると、キリストの衣服が白く輝き、顔が変わっていたというお話です。
こちらでも解説したように、5部ではジョルノはキリストのオマージュ的な存在ですが、あの眠りも「キリストの変容=ジョルノがレクイエム化という変容への前兆」「弟子のペトロの強い眠気=仲間のミスタやトリッシュらが眠る」と類似点が見えてきます。ちなみにペトロは、ポルナレフのミドルネームであるピエールの由来となっている人物です。
そしてディアボロ戦では1つの矢をめぐっての争奪戦でもありましたよね~!いわゆるビーチフラッグね。聖書でもこのビーチフラッグ(?)的な表現がありまして…それがパウロの語ったこんな言葉です。
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
新共同訳(1997年)『聖書』「コリントの信徒への手紙」日本聖書協会
「競技での賞を受けるのは一人だけ」というのが1本の矢の争いっぽいですよね~!
こちらは「自分の使命のために一生懸命になりなさい」「目先の誘惑や怠惰に負けず心を律しなさい」といった意味。冠のくだりは「競技選手は朽ちる冠(=月桂樹の冠。当時の金メダル!)のために懸命に努力するのだから、私たちクリスチャンも朽ちない冠(=永遠の命)のためにベストを尽くしましょう」といったニュアンスになります。
この朽ちる冠、朽ちない冠という表現の仕方は、ジョルノとディアボロを想起させるところ。目先の麻薬という利益や絶頂という朽ちる冠に溺れたディアボロと、仲間を失っても朽ちることない黄金の精神を受け継いで前を向いたジョルノたちの対比のようにも見えてきます。どことな~~~く元ネタ感あるのでは…?
そしてパッショーネには受難(キリストの苦しみ)という意味がありましたが、仲間が傷けられながらも前に進む様子はまさしくジョルノの受難。仲間の死を背負いながら矢を追いかけ、レクイエム化に至る過程も、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩き、磔刑に架けられた後に復活したという受難の話から着想を得ているのかもしれません。

まとめ:シルバー・チャリオッツ・レクイエムの影と入れ替わりの能力はポルナレフの願いの反映では
シルバー・チャリオッツ・レクイエムの能力について考察してみました。かなり特異なスタンドでしたが、ポルナレフが矢を渡す者に強いこだわりがあったからこその能力だったのではないでしょうか。
また光と影というのも面白いですよね~!3部であれだけやらかしたポルナレフのスタンドが、あんな能力になるなんて…人の成長とは未熟な過去に打ち勝つとはまさにこのことよ。なお発言者本人は矢に拒絶された模様。残念…!






