ジョジョの奇妙な冒険7部のスティール・ボール・ランでは「祈り」という言葉が何度か登場しています。
物語の最終盤でも使われた言葉でしたが、「祈り」にはどのような意味があるのでしょうか。考察してみました。
1. 「祈り」捧げる人たちと「祈り」の対象について
まずは「祈り」の行為の対象を見ながら、「祈り」を捧げられるのはどのような人なのか考えてみます。7部では「祈り」という言葉が何度も登場しましたが、例えばサンドマンの最期の台詞を見てみると…
砂漠の砂粒…ひとつほども後悔はしていない………何ひとつ……ただ…気がかり…なのは…姉をひとり故郷に残して来た事だけだ 幸せになってほしい…オレの祈りは………………それだけだ
荒木飛呂彦(2007年)『STEEL BALL RUN』11巻 集英社
故郷の姉の幸せを願っていたサンドマン。いい弟じゃんよ…
もうひとつ、リンゴォの最期の台詞も見てみます。
「男」と「社会」はかなりズレた価値観になっている…だが「真の勝利への道」には「男の価値」が必要だ…おまえにもそれがもう見える筈だ…レースを進んでそれを確認しろ…「光輝く道」を…オレはそれを祈っているぞ そして感謝する
荒木飛呂彦(2006年)『STEEL BALL RUN』8巻 集英社
リンゴォはジャイロが光り輝く道を見つけられることを祈っていました。他にも人の生死に対して「ボールがネットの向こう側に落ちる『奇跡』を祈ろう」と話すジャイロの父親など、7部で「祈り」を捧げる人たちの多くは他人の幸福や成功を願っています。
こういった他人思いの行為って、自分が精神的に安定して自立した生き方をしている人にしかできないですよね~…例えば全~~~然祈りを捧げそうにないディエゴは、人よりも自分が上に立ち、見下して支配することを目指していました。つまりディエゴの理想の生き方は、他人と比べることでしか成立しない訳でね…
一方で「祈り」を捧げていた人物を見てみると…身内に散々に言われても自分の道を選んでレースに出場したサンドマン、やり方に賛否はあれどストイックに生長しようとしたリンゴォ、必要以上に物事に立ち入るべきではないという確固たるスタンスを築いていたジャイロの父親など、人と比較することなく、自身の生き方を貫いてきた人たちばかりでした。
つまり他人の幸福を願って「祈り」を捧げられる人たちは、自立した生き方を持つ人たちと言えそうです。ジャイロの父親風に言えば「荒野を渡り切る心の中の地図」を持っている人ってことね。ディエゴは他人がいればいいだけで、生き方(=心の中の地図)は二の次なんだろうな…
でもよくよく考えればそりゃ~そうだよな~という話ですよね~!他人と比較して一喜一憂しているうちは祈っている場合じゃないもんね。自分に余裕がなければ、他人への慈愛の心は生まれないよね…

2. ラストシーンのジョニィの「祈り」の意味
次にラストシーンのジョニィの台詞の意味を考えてみます。
『祈って』おこうかな………航海の無事を………この大西洋を渡って家に帰ろう………家に…帰ろう…
荒木飛呂彦(2011年)『STEEL BALL RUN』24巻 集英社
ここでジョニィが祈っていたのは無事にジャイロの遺体を引き渡して、祖国と父親に友の活躍や素晴らしさを報告できることでした。あとは文字通り航海への祈りね。なんせ旧世界線のジョースター家は乗り物運が悪いからな。一応祈っとけ祈っとけ!
でもね、レース中のジョニィが祈りに言及する目立ったシーンはないと思うんですよね~…多分…それもそのはず父親の愛に枯渇したあまり、父親の顔色を気にせざるを得なかった人生を歩んでいたジョニィなので、祈るどころではなかったはずです。
それでも祈りを捧げられたところからは、レースを通じて父親の愛にすがる人生から自立できた証とも言えるのではないでしょうか。血縁関係ではなくとも大切な存在ができたことで、親子問題をジョニィなりに消化し、父親との適度な距離感を掴めるようになったのかもしれません。最終レース後に父親と再会する描写がなかったのは、父親依存からの旅立ちの意味もあったりして…
最終レースで父親を見た時のジョニィの涙の意味についてはこちらで…

黄金の精神の継承と「祈り」との関係
もうひとつ、ジョニィが祈りを捧げられたのはジャイロがいたからこそですが、彼との出会いでジョニィがどのような変化を遂げたのか考えてみます。ジョニィは漆黒の意思を持ちながらも「気高く飢えるべき」「ジャイロのような受け継いだ人間から学びたい」と黄金の精神を欲し続けていました。
こちらでジャイロが黄金の精神を持っていることは考察しました。でもね、いくらそのジャイロが祈りを口にしていても、レース中のジョニィは祈りに対して懐疑的だったと思うんですよね~…ブッ殺してでも欲しいものを手に入れてやる!という姿勢の人物から見れば、いい結果になりますように~~~!と祈るなんてなまっちょろい行為って思っちゃうんじゃないかな…
そんなジョニィが最後に祈りを捧げていたということは、ジャイロのような黄金の精神を受け継いだことが示唆されているはず。確かに物語終盤ではジョニィの優しさと強さを感じられるシーンがありました。友の活躍を祖国に報告するために、ジャイロの体を探そうとしたりとかね。
さらに「遺体」が盗まれたと気づいた時には、多くの犠牲を生み、これからも生むであろう「遺体」の必要性に疑問を呈しながら、使命感を持って最終レースへの決意を述べています。
荒木飛呂彦(2011年)『STEEL BALL RUN』23巻 集英社
生長したな、ジョニィ(cv.小野大輔さん)人の成長にやたら敏感な承太郎さん。
歩きて~~~~!という自分の欲望のためにレースに参加した青年が、人の死を思いながら人類を変える「遺体」のために戦うなんて…これぞ漆黒の意思を持つ人間が黄金の精神も受け継いだ姿ではないでしょうか。ジョニィ、成長性Sなんか…?
ということでラストシーンでのジョニィの祈りからは、ジャイロのような黄金の精神を継承して生長し、自立した人生を歩み始めたことが伺えるのではないでしょうか。物語冒頭の「青春から大人という意味で、ぼくが歩き出す物語」という台詞の意味が、最後の祈りに詰まっているのがいいよね…!

3. ジョニィは「祈り」を捧げる前から黄金の精神を持っていた説
でもねジョニィって、元々黄金の精神を持っていた人物だったとも思うんですよね~…最終話にはこんな台詞もありました。
――これは『再生の物語』―― 文字どおり僕が再び歩き始める事になったいきさつ………………そして思い返せば旅の間はずっと「祈り」続け………この馬による大陸横断レースは「祈り」の旅でもあったのだ 明日の天気を「祈り」朝 起きたら目の前の大地に道がある事を「祈る」(中略)このあたりまえの事をくり返しながら――――友と馬の無事を「祈る」荒木飛呂彦(2011年)『STEEL BALL RUN』24巻 集英社
7部はジョニィが再び歩き始める「再生の物語」とのこと。それは両足で歩くことはもちろん、「マイナスをゼロに戻したい!」と願ったジョニィが、馬に乗ってもう一度、昔のような生き方に立ち返る物語だったのだと思います。とすればやっぱり昔のジョニィは黄金の精神を持っていた可能性があるし、気高く飢えろ!と誇り高き生き方を理想としたこととも整合性がとれるよね。
そもそもジョニィは弟思いニコラスを見て育ち、ダニーのことも愛でていて、池に沈められないよ~と泣いていた心優しい少年だったんだもんな~!それが兄の死により親子関係が悪化し、好成績を出して父親を振り向かせなきゃ!と結果を求めすぎたために、黄金の精神が隠れて漆黒の意思が前面に出ていただけだったとかね。その精神がもう一度目覚める話だったんじゃないかな~…
だから7部は友や馬という大事な存在の無事を心から祈りながら、ジョニィがジャイロから黄金の精神を継承し、ジョニィの中の黄金の精神も再生する物語だったのかもしれません。そもそも世界線が違うとはいえジョースター家だからね~…生まれ持った黄金の精神があっても、不思議ではないのかな~という気がします。

まとめ:SBRの「祈り」は自立、他人への慈悲、ジョニィの生長と再生などの意味がありそう
7部の「祈り」の意味について考察してみました。
他人の幸福や成功を祈っているシーンが多い7部でしたが、それは自分自身が一本立ちしていないとできないことなのかもしれません。自分の軸が他人任せだったり、ブレブレのうちは難しいんだろうな~…
しかし最後のジョニィの祈りは味わい深いものがありますよね~!まるで長~~~いロードムービーでも見たかのような気持ちになるというか…マルコの切ない結末も含めて大人な部だったよな~…


