5部ポルナレフの一人称が「わたし」から「オレ」になる理由を考察してみた

ジョジョコラム

ジョジョの奇妙な冒険5部に登場した、ジャン=ピエール・ポルナレフ。3部とは一味違う大人な雰囲気で、ジョルノ達を勝利に導きました。

そんなポルナレフですが、5部では一人称を「わたし」を中心に使いつつ、時々「オレ」に変わることがあります。今回はこの理由を考察してみました。


1. 5部ポルナレフの一人称の使い分けと、「わたし」を使うシーン

まず5部ポルナレフの一人称の使い分けについて、考えてみます。3部では一人称として「オレ」を主に使用していたものの、5部では圧倒的に「わたし」が使われていることが多いポルナレフ。しかし本当に一人称が「オレ」から「わたし」に変わったのか、そもそも疑問です。

メタ的なことを言えば、3部と雰囲気を変えたかったため…という理由は考えられます。でも人生の転機を経験したところで一人称まで変わる…のか…?とやっぱりちょ~~~っと腑に落ちないのです。

もしかすると「わたし」が基本で「オレ」が混ざっているのではなく、ポルナレフの一人称は5部でも「オレ」が基本で、必要性に応じて「わたし」を使っていたのではないか…という可能性もあるはず。

それを踏まえた上で、一人称を「わたし」と発言しているシーンを見ていきます。

ポルナレフとブチャラティたちのパソコン上での会話

まずブチャラティたちとパソコン上で会話をする場面です。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』59巻 集英社(140頁)

このパソコン上でのやりとりでのポルナレフの一人称は全て「ワタシ」ですが、これはより丁寧に話す必要があったからではないでしょうか。

電話がつながった直後、逆探知されたと思ったブチャラティは電話を切ろうとします。警戒されてしまった訳ですが、だからこそ自分は味方であり、ディアボロを倒すために力になれることを証明しなくてはなりません。

さてこのような状況で相手に使う一人称として、「オレ」と「ワタシ」ではどちらが信頼に値する人間の言葉に聞こえるか。「オレハズット待ッテイタノダ」「オレハ味方ダ」と言っても悪くはないですが、「ワタシ」の方が冷静に聞こえ、説得力も増すはずです。

また「オレ」という一人称についてはこのように言われています。

古語辞典などによると、オレは古代には相手を低く見ていう二人称であって、転じて相手が同等または目下のときにいう一人称になったとのことです。(中略)軽視の二人称が一人称になった点で、一人称としてのオレはボクと同様なへりくだり、自己卑下による一人称だったと言えましょうが、同等以下への一人称という点では尊大にも威張りにもなる一人称です。

三輪正(2005年)『一人称二人称と対話』 人文書院(50-51頁)

つまり「オレ」は相手が同等以下の時に使われ、自分を大きく見せる効果のある一人称とのこと。

でもこの時のポルナレフには自分を尊大に見せたり、威張る必要性はありません。そんなことをした瞬間、即お電話終了の可能性すらあります。ここで大事なのは、待ちに待った希望であるブチャラティたちに信頼してもらうことではないでしょうか。だからこそ丁寧で説得力のある「ワタシ」を使ったと考えられそうです。

ディアボロとの戦闘中

次にジョルノたちと共にディアボロと戦っている最中についてです。ここでもポルナレフは基本的に一人称として「わたし」を使用していました。こちらも信頼という視点から考えてみます。

さてブチャラティとコロッセオで待ち合わせたポルナレフですが、突如出現したディアボロと再戦を余儀なくされました。その結果、ブチャラティチームとは直接顔を合わせることなく、亀の姿となってしまいます。だから自己紹介もこんな感じに…

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』62巻 集英社(44頁)

ミスタの正直すぎる反応よ…

でもそりゃそうだよな~!亀が話してるだけでも意味不明なのに、約束の相手とか言われたって…ねぇ…しかも自分のスタンドが暴走状態だの、「矢」は敵でも味方でもないだの発言されたところで、全て信頼する方が難しいはずです。


さらにチャリオッツ・レクイエムの力が発動したことで、ミスタには関わりを持ったこと自体を責められてしまいます。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』62巻 集英社(172頁)

まぁそう言いたくもなるよねぇ…刻一刻と状況が変わる中で、ポルナレフへの信頼度が揺らぐのも仕方のないことです。

でも危険なディアボロと鉢合わせしてしまった以上、矢を取り戻すことが最優先。だからこそ信頼を勝ち取るために、丁寧かつ説得力のある印象を与える「わたし」を一人称に使用したのかもしれません。

このように考えると、5部ポルナレフの「わたし」は自分を装飾するための一人称であり、素の状態で使用している一人称とは言いきれないと言えそうです。

2. ポルナレフの一人称が「オレ」の時

今度は「オレ」が使用されるシーンを見ていきながら、5部ポルナレフの素の状態での一人称は「わたし」と「オレ」のどちらなのかを考えてみます。

ポルナレフとブチャラティと出会った時

まずはポルナレフとブチャラティが出会った場面です。コロッセオで待ち合わせして出会うことが出来た2人ですが、出会いたての時は「オレ」を使用しています。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』61巻 集英社(137頁)

この時点ではやってきたブチャラティは本物なのか、隣のドッピオは何者なのか、分かりかねていた場面です。そんな警戒時に「オレ」と使うのは、「わたし」よりも威圧感を出せる言葉だからではないでしょうか。しかもここではこのオレ」という言い方からも、自分の方が立場が上だぞ~!というニュアンスを出そうとしていることが感じられます。

ということで、ここで「オレ」を使った理由は、相手に圧をかけるための「オレ」であると考えられそうです。

ディアボロとの再戦中

次にディアボロとの再戦中のシーンです。ここでもポルナレフの一人称は「オレ」になります。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』61巻 集英社(158頁)

ただですらとんでもない能力を持つディアボロですが、ポルナレフにとっては自分はもちろん故郷の若者の人生を麻薬で壊した敵です。この記事でもちょっと触れましたが、シェリーやイギーなど他人の犠牲がある時こそ強くなれる上に、リベンジに燃える性格だったポルナレフが、ディアボロとの再戦に熱くならない訳がありません。

5部ポルナレフはなぜディアボロへのリベンジに燃えていたのか
『ジョジョの奇妙な冒険』の5部「黄金の風」に登場したポルナレフ。ディアボロにより体の一部を奪われたポルナレフは、ブチャラティチームと共に、リベンジを果たそうとします。ところでポルナレフは、なぜリベンジに燃えていたのでしょうか。考察してみました。

こんな一面があったポルナレフだからこそ、宿敵相手により攻撃的になるし、圧をかけたくもなったはずです。ましてや手足が不自由となった身としては、言葉で自分を大きく見せることも必要だったのかもしれません。

こんな風に考えてみると、ここでの「オレ」の使用は、ポルナレフ本来の熱さと相手への攻撃性ゆえの「オレ」と言えそうです。

ディアボロ戦終了後のポルナレフ

そしてディアボロ戦終了後のポルナレフも、一人称が「おれ」のシーンがありました。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』63巻 集英社(222頁)

これね~~~~かなりポイントになる一人称の変化じゃないかな~~~~!

ディアボロを倒しただけではなく、本体が死んでも生き延びることが出来たことで、ポルナレフはほっとした気持ちになったのではないでしょうか。だって「しばらく亀の中に休ませてもらうことにした」って言ってるくらいだもの…長年の緊張の糸が切れて、ポルナレフの素の部分が出て来たのかもしれません。

まあアニメ版では「住まわせて」に変わってたんですけども。なんでやねん!
住まいも決まったし、休むよりもう少し頑張って働いちゃうぞ~!ってことなのかな…


ちなみにその1ページ前では、一人称は「わたし」です。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』63巻 集英社(221頁)

なぜここでは「わたし」なのか。

これ、置いて行って欲しくなかったからじゃないかな…いや本気よ本気!

だって置いて行かれたところでどうしようもないもんね!だからこの直後、ジョルノたちが「お前はもう用なしだよ」という態度ではなくて、「ポルナレフさん!」とか「生きてたのね?」とか言ってもらえたことに、ちょっと安心していたりして。あれだけポルナレフを責めたミスタも笑顔だし、徐々に和やかな空気に…

敵は消え去り危機を脱して、緊張感の解けたこのシーン。もう自分を飾る必要はなさそうです。だからこの場面で出てきた「オレ」こそ、ポルナレフの真の一人称に近いと言えるのではないでしょうか。

本来は人懐っこい一面があり、相手ともすぐ打ち解けてしまうポルナレフ。5部に再登場するまでには辛く、厳しい道のりがありました。でも天性のコミュ力お化けな一面を隠すことはあっても、完全に消えてしまった訳ではないはずです。ディアボロとの戦いが終わり、緊張から解放されたことで、やっと素の自分を出せたのかもしれません。

このように考えると、5部ポルナレフの基本の一人称は「オレ」のままなのかもしれません。だから今後ジョルノたちと話す時には、きっと一人称を「オレ」に戻すのではないかな~と思います。

3. ディアボロ戦最中のポルナレフの「オレ」表現について

最後に、ディアボロとの戦闘中に「オレ」が登場したシーンを見てみます。非常にレアケースで、数か所しかないのですが、一応言及してみます。

ポルナレフがボスの正体について説明する時

まずはジョルノたちと合流した直後、「ボス」が2人組だったことについて話す場面です。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』62巻 集英社(56頁)

なぜここでは「おれ」を使うのか。

…………

なんででしょうね(正直者)

分からんな~~~~…と思っていたのですが、アニメ版を確認してみたら「わたし」に変更されているではありませんか…何ということでしょう…
詳しい経緯は分かりませんが、恐らく変えたほうが自然だよね~ということだと思われます。ボスが2人組かもという情報は大事だし、ジョルノたちにも信頼しておいて欲しいところ…ということで「わたし」に変わったのではないでしょうか。

ミス…ではないのかもしれませんが、ここでは「オレ」と使ってはいるものの、その理由を深く追及する必要はなさそうです。

亀と入れ替わったポルナレフが矢に触った時

そしてもう一つのシーンが、ポルナレフが亀の口で矢をくわえるシーンです。

荒木飛呂彦(1999年)『ジョジョの奇妙な冒険』62巻 集英社(143頁)

こちらはアニメ版でも「オレ」のままでした。つまり原作通り一人称は「オレ」の方が、ベターだよ~というシーンのはずです。

この理由を強いて言うのであれば、必死に矢を口で掴んでいた上に、一刻も早くスタンドを貫いて欲しかったからではないかな~と。だからその必死さゆえに、「オレ」を使っているのかもしれません。そしてメタ的なことを言えば「わたしはやっとのことでカメにしがみつく魂」と言われるより、「オレ」の方が緊張感も演出出来ます。

と言うことで、ディアボロとの戦闘中での「オレ」の使用は、緊迫感や場を引き締めるための意図があったと考えられそうです。

まとめ:ポルナレフの一人称は基本が「オレ」だったのではないか

5部ポルナレフの一人称について考察してみました。

3部での一人称、そして5部での「オレ」と「わたし」の使い分けを見るに、ポルナレフは基本の一人称が「オレ」のままだったのかもしれません。そして信頼の獲得や説得力を演出するために、状況によって使い分けているのが「わたし」なのではないでしょうか。

だから5部終了後に、うっかり承太郎にでも会ったら「オレだよ~ん!」くらいのテンションで話していたりして…

5部の記事はこちらもどうぞ~!

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